李世民に関するニュース


把民众当作镜子
网易
李世民说:“为君之道,必须先存百姓,若损百姓奉其身,犹割股以啖腹,腹饱而身毙。”(吴兢《贞观政要》)在他看来,统治者和民众是连成一体的,其出发点是和把民众当作 ...


新浪网

《三国》5月2日开播 陈建斌:说曹操曹操到(图)
新浪网
对别的作品,我无权妄加评论,新三国是一部充满文化气息的大型史诗电视作品,风格是历史的,题材是厚重的,我是心存敬意的去扮演这个曹操,因为三国英雄首推曹操 ,西 ...

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唐朝皇帝热衷客串诗人(图)
网易
李唐王朝存在的二百八十余年间,总共有二十三位皇帝,其中有诗歌作品留存到今天的就有十二位:高祖李渊、太宗李世民、高宗李治、中宗李显(哲)、睿宗李旦、玄宗李隆基 ...

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光明网

唐太宗:以“孝”的名义
光明网
黑影已近在咫尺,正是自己的弟弟——秦王李世民。 这是一次计划周密的刺杀行动。 李建成拨转马头,冲玄武门奔逃。李元吉斜刺里跑向一座宫殿的后面。秦王李世民一边策马飞 ...


广西新闻网

[原创]聋人朋友加入“红豆林” 共植友谊之树(图)
广西新闻网
跟他们的沟通交流并没有想象中困难,记者把要问的问题写出来,广西聋人协会主席李世民看到问题,就直接开口回答。 李世民说,虽然他们听不到任何声音,但简单的唇语他 ...

李世民関連エントリー

李世民 りせいみん 太宗

... その元を離れた月容との切ない恋 突出した才能でやがて天下を統一していく太宗・李世民と、あまりにドラマチックな人間・李世民 中国史の中でもっとも偉大な皇帝の一人といわれる李世民の、光と影を描いたストーリー。 李世民 DVD TV・映画 ...

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作品紹介【創世の龍 李世民 大唐建国記】

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皇帝 李世民

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皇帝 李世民

李世民

李世民 (講談社文庫 こ 72-1) 先日、昼食のついでに本屋さんに立ち寄ると、『李世民』という本を見つけました。 まだ、読んでいないのですが登場人物を見ただけでワクワクします。 李世民:唐の第2代皇帝、太宗です。 以前読んだ ...

李世民

『太宗李世民』

太宗李世民 (幻冬舎文庫) (2001/03) 芝 豪 商品詳細を見る 唐の2代皇帝として活躍した李世民の、皇帝になるまでの前半生を描いた歴史小説。 冒頭は世民がクーデターで政敵だった兄の建成と弟の元吉を殺害するシーンから始まり ...

『太宗李世民』

李世民旅行記

中国旅行記10(15):9月26日平遥・平遥古城近郊、黒酢工場(by 旅人のくまさんさん)

李世民
<2006年9月26日(火)>

 今回の旅行も、今日と明日の2日を残すだけとなりました。明日は上海を経由して、日本へ戻るだけですから、実質、今日が最後の日です。しかし、今日は大きなイベントが控えていました。S.P.先生のご生家訪問です。太原の晩餐会でご一緒した、ご親戚の80歳になられる女性のご長老が、自ら水先案内を買って出られていました。
 この日のメモです。5時30分目覚し、8時30分、平遥のホテル出発でした。黄河壷口瀑布の見学を交通事情で諦めた関係で、ゆっくりとしたスケジュールとなりました。

<S.P.先生のご生家訪問>
 水先案内のご長老とは、泊まった平遥のホテルでの待ち合わせとなりました。合流したところで、平遥古城郊外のご生家へ揃って出かける手筈です。郊外といっても、ほんの僅かな距離でした。近郊と言った方が当たっているようです。城壁から2キロ程の位置だったようです。
 大原を出発された黒のベンツが先導車でした。当然ながら、ご長老の娘さんか、お嫁さんも同行されました。そのご生家近くになった時、S.P.先生も場所を思い出されたようでした。確か、1989年頃に一度訪問されたことがあったとも、お聞きしていました。しかし、その時から17、8年の年月が経っていました。
 車が石塀に囲まれた一角へ入ると、スピードを落とし、慎重な運転となりました。路地で車が立ち往生しないように、道幅や、轍あとを確認しながらの運転でした。
 車が止まった場所が、ご生家の入口の前でした。最初に出迎えられたのが、その昔、S.P.先生の家で執事を勤められていた方の身内と言われる女性の方でした。太原から水先案内をされたご長老とは、顔見知りのように見受けました。
 事前に電話連絡が取ってあったらしく、現在の居住者の方も顔を出されました。それで、住居の中まで見学させて頂きました。当時の頃と、変わっていないとの、S.P.先生のお話でした。
 先生は70年前のセピアの写真を手にしながら、その写真が撮影された母屋の前を指し示されていました。その時、母屋の左手からご長老が1人で顔を出されました。お聞きしたところでは、唯一、S.P.先生のご親戚の方でした。
 そのご長老は、86歳になられていました。S.P.先生のお名前も覚えていられて、先生が小さい頃のお話もされたようです。おそらく、長い間、ご親戚の方との連絡も無かったのでしょう。遠来の訪問に涙を拭きながらのご対面でした。周りの方も、思わず貰い泣きされていました。
 先生が小さい頃に遊ばれていたと言う、母屋の屋上テラスから付近の景色を眺めたり、セピア色の写真が撮られた場所での記念撮影等をしていましたら、あっという間に訪問の時間が過ぎていきました。
 訪問を終えて、86歳のご長老とお別れする時、何時までも見送られていたお姿が1人寂しそうで、たまらない気持ちにさせられました。日中戦争、文化大革命など、幾多の困難な歴史を、その丸まった背中に背負われているように思われました。
 今回の旅行で、S.P.先生方は、第二次大戦前から続いた旧日本軍がもたらした多くの災難に対し、一言も語られませんでした。しかし、1937年に始まり、長く続いた日中戦争、日本の関東軍による満州への侵略による傀儡政府の樹立など、多くの困難をもたらした事実は、歴史上消え去ることはありません。
 中国と日本とでは、現在の政治体制は異なりますが、同じ漢字圏として、多くの文化を共有しています。今後、友好関係を修復し、更に深め、アジアの安定、世界の平和に貢献できる協力関係が構築されればと願っています。その前提として、日本は過去に犯した過ちを苦い薬として、再認識する必要があるでしょう。非核三原則の堅持、平和憲法の維持が、その何よりの証であると考えます。

<黒酢工場見学>
 平遥のお土産は、黒酢と決めていました。ところが、そのお土産を買うまでも無く、手土産に頂いてしまいました。その黒酢工場見学の紹介です。黒酢の材料は、高粱です。
 日本へ輸入されている中国の黒酢は、もち米などの米を原材料にしているものが多いようですが、この工場で見学したのは、高粱から作られる黒酢でした。高粱は、中国で一番生産されている白酒(パイチュウ)の原料にもなります。日中国交回復のセレモニーで、田中角栄首相が周恩来首相と酌み交わした茅台酒も、白酒の1種です。
 つい、お酒の話になりましたが、黒酢の工程も、お酒の醸造と良く似ていました。部屋の中に居るだけで酔ってしまいそうでした。

<山西省の古刹、晋祠見学>
 いくつかのインターネット情報を参照しながら、山西省の古刹、晋祠について説明します。
 晋祠が建造された時期は、いまだに確定されていないようです。一説には、祠堂は春秋時代の晋の始祖、周の武王の次子叔虞を記念して北魏代に創建されたものとされます。叔虞は唐に封ぜられましたが、領内を流れる「晋水」と呼ばれる川の名に因んで、国名を唐から晋に代えました。それが祠の名称の起源ともなっています。
 晋祠に関する最初の記録は、西暦466年から572年の北魏の時代の「水経注」にあるとされます。北魏の時代から計算しても、少なくとも千年以上の歴史をもつことになります。長い歳月の間に、晋祠は数回にわたって修復、拡大され、その面貌を変えてきました。
 西暦646年、唐の二代目の皇帝である李世民は晋祠に来て、著名な碑文である「晋祠之銘并序」を残しました。更に、晋祠の大規模な拡大工事を命じました。
 その後11世紀には、宋の皇帝が叔虞の母親である邑姜のために聖母殿を建てました。のち、この聖母殿を中心として建築物が次々と完成されて行き、水鏡台、会仙橋、金人台、難老泉などが異なる時代に建造され、これら建築物が巧みに融和しています。
 ここは寺院のようでもあるし、皇室の庭園でもあるような総合的建築群となっています。晋祠には異なる時代の美しい建築だけでなく、有名な「周柏隋槐」もあります。柏(かしわ)と槐(エンジュ)の古木です。
 言い伝えによりますと、「周柏」は西周(紀元前11世紀から8世紀)時代に植えられとされます。聖母殿の左側にあり、全体は南に傾いて地面との角度は約40度です。木の葉は上から殿堂を覆っています。周柏は2000年近くの歴史を持ちます。
 「隋槐」も千年以上の歴史があり、この古木たちは豊かな伏流水の恵みを受けて、生気に溢れています。晋祠内の泉と、静かに流れる清水と濃い木影が悠久の時を刻んでいました。
 歴代に亘り改築、拡張が行われた中で、最古ものが聖母殿です。内部には表情豊かな北宋時代の彩色塑像43体が現存します。現地ガイドさんの説明に従って、その塑像の1つの表情を凝視しました。見る角度によって微笑みと、憂いに替わって見えるようです。正面からは、その一つの表情か見ることが出来ませんでした。
 「水母楼」には、伝説に登場する「水母娘娘」が祀られ、「難老亭」は、北斉の天保年間(550年~559年)の創建とされます。明代に改修され八角宝形造りの造型美を誇ります。ここで、「水母娘娘」の物語のあらすじを紹介しておきます。現地ガイドの王さんからもお聞きしました。
 「その昔、晋祠村に春英という娘が住んでいました。彼女は童養『女息』(息子の嫁にするために、小さい時から貰って育てる女の子)彼女は朝早くから夜おそくまで、一時も休まず働き続けました。それでも姑は気に入りません。手をあげる、殴る、罵りました。春英にとって一番辛いのが水運びでした。この村には水が少なく、飲み水は何里も離れたところから運ばなければなりません。ある日、まだ暗い時、村の入り口で一休みしようとした時、一人の老人が一匹の馬を引いて近づいてきました。老人は水を所望し、馬にも水を飲ませました」
 ここから物語はハッピーエンドへ向かいますが、紹介は、ここまでとします。廟内に神仏が祭られている中に、若いお嫁さんがゴザの座布団に座して櫛で髪をといている像があります。それが春英です。
 晋祠で伏流水から湧き水となって流れる清水は、年間を通じて17℃の水温を保っているようです。これもガイドの王さんの説明にありました。そのまま飲めるともお聞きしました。
 ところで、2002年5月付の「人民網(ネットワーク)」では、「国家文物局、建設部、中国工程院、清華大学、北京林業大学、山西省文物局の専門家らは、晋祠の建造物、彫塑、園林、石碑などは、歴史、科学、芸術の観点で、世界文化遺産の基準に相当し、世界文化遺産を申請する資格があると判断した」事を伝えていました。
 周樹と隋槐は、難老泉、宋代の侍女塑像と共に「晋祠三絶」と称されています。世界文化遺産に登録される日が一日も早い事を願って、この節の説明を締めくくります。

<平遥市街の散策>
 昼食の場所は、昨日の晩餐会が開かれたレストランの2階でした。その内庭に車を停めて、1時間程の自由時間となりました。昼食の時間には、早過ぎたためです。
 早速、カメラを手に平遥の町に向かいました。レストランが市街の中心地にありますから、回りは商店街が並んでいました。片道20分以内と見当を付けて、平遥古城の城壁が見える場所や、露天が並ぶ場所、デパートの中も覗いてみました。買い物ではなく、写真撮影のためです。
 買い物は、レストランの入口のスーパーで済ませました。平遥の香肉等です。そのお店の前に居たエンちゃんの値段交渉で、切り身の肉も真空パックして貰いました。

<平遥での昼食>
 昼食は、昨日の晩餐会と同じレストランでした。理由は簡単です。他に相応しいレストランが存在しないためです。Enちゃんもお二人の伯母さんも、少し食事に飽きた顔をされています。実は、昨日のメニューと殆んど一緒だったからです。
 料理は皿を重ねて、どっさりと出されましたが、その品々は、どこか見覚えがありました。まだ昨日のことですから、当然のことでした。私も沢山ではありませんが、麺類は美味しいので、黒酢をたっぷり使って頂きました。平遥の黒酢は熟成されて、香り十分、味も最高です。
 今改めて写真でその料理の数々を見ますと、残してしまったのがもったいない思いがします。お店としては、一番の料理を全て1回で出してくれたのでしょうが、2回に分けて出すとか、工夫をすればよかったことでした。


  平遥のS.P.先生のご生家で
 一叢の秋桜咲きしその奥の母屋は在りしセピアの写真

 長老は涙拭つつ遠来の身内に語る背は曲りおり


  晋祠で
 千年を超ゆる鎮守の杜在て古き社は此処に鎮まる

 罅割れて鉄の帯締め支木に凭れて猶も力士像立つ

 伏流は社の杜に現れて村を潤す旅は始まる

 仄暗き社殿に立ちて泣く如く微笑む如く侍女の像在り

  黒酢工場で
 咽返る香は部屋に満ち満ちて出荷の時待つ甕並びおり

【旅行時期】2006/09/21~2006/09/27
【エリア】平遙
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】旅人のくまさん

唐代壁画②(by 陝西虹陽国際旅行社日本旅行中心担当さん)

李世民
「打馬球図」

「打馬球図」は則天武后の次男の章懐太子のお墓から出土され、ポロ試合の場面を表現した壁画です。長さは6.75メートル、高さは1.65メートルで、墓室の地下道の西側の壁に描かれました。尻尾の短く結んでいる馬が20匹あり、白色と褐色の服装を着て、黒い長靴を履いて、頭にはフードを被っている騎士は左手に手綱を持って、右手に長柄の槌を持ち、激しく生き生きとしている試合場面を再現しました。得難い一流な壁画とは言えます。
ポロというスポーツはペルシア起源の騎乗球技で、初唐の太宗李世民が提唱のもとに、全国で人気があるスポーツになりました。十人ずつ二組に分れ、馬から木のボールをゴールへ打ち込み合って、勝負を争います。ゴールは一つと二つ二種類の試合方があります。一つゴールの場合は木の板壁でゴールとします。板壁の下には一尺(約33センチ)ぐらいのネットを作って、どっちか先にボールをゴールへ打ち込み合ったら、勝利を収めます。二つゴールの場合はコートの両端に一つずつゴールを設けて、打ち込み合ったボールの数によって、勝負を争います。「打馬球図」は二つゴールがある試合だと言われます。

【旅行時期】2007/12/01~2007/12/10
【エリア】西安
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】陝西虹陽国際旅行社日本旅行中心担当

バスの旅 洛陽から少林寺へ(by 浅山 (あさやん)さん)

李世民
バスの旅 洛陽から少林寺へ


龍門石窟を後にして、向かった先は香港映画などで有名な  「少林寺」である。少林寺の歴史的な史実については、色色  
書かれているから詳述は避けたい。


「地球の歩き方」を読んで いただければ、少林寺成立の歴史的背景は概略的に 掴めると想う。
西暦495年、北魏の時代に創建された古刹が少林寺であり、唐の初め李世民の天下統一を助けて少林寺の名の名前は天下に広まった。

映画でイメージする少林寺は 嵩山の麓、小高い丘の入り口に
厳然と聳える門構えであり、何人もの僧たちが行き来する。

禅宗かつ武道「少林寺」の荘厳な趣であると想っていた。
洛陽から約2時間、嵩山の山麓、登封市に入ると、やたら少林寺の武術学校が目立つ。聞けば登封市に約200校近くあるという。
武術修行もすべて学校で行われている。

嵩山山麓は登封市の北側沿いに東西約60キロメートルに渡たって山々が重なっている。
少林寺への入り口はその山麓南側にある。
麓は観光客で一杯である。入場料は案内には40元とあるが100
元である。現在の少林寺管長は40代で非常に商魂たくましいらしい。100元とすれば かなりの売り上げである。

電動カーに乗って少林寺正門前に行く。もち有料である。
敷地は広大であり、気温30度以上の中で歩けば
相当に体力を消耗する。
少林寺の境内を歩くがとにかく やたら人が多い。
その奥まった建物「紋珠殿」の一角に「くもったガラスの箱」がおいてある。中は全く見えない。 
゛「中になにが在ると想いますか。」とガイドが問うが、
「なにも見えない、石があるだけ。」と応える。正解゛だという。
 一この中にはには達磨大師9年間の修行により影がついた「面壁影石」が在るという。

少林寺武道を見学するための「少林寺武術館演武庁」がある。
1200人程度収容できる円形のホールであり、中央の舞台上では
所狭しと少林寺武道の演武が行われる。
6歳くらいから10代後半までの若者20人ほどで、型が行われる。
ジャッキー・チェン主演の「蛇拳」や「酔拳」でも、師匠に弟子入りして基本の型を教わる前に、型を身につける体力を身につける訓練から始まる。
「少林寺拳法」も、まずは、型を身に着けるための体力作りから始まる。
そして 彼等が披露するのはその応用の型である。

その小さな身体のこなしはさすがである。 訓練のたまものであろうが、少しショー化されているのが気になる。
それでも多くの観衆が拍手喝采を送るが、写真撮影は厳禁とある。
 
ジェットリーが初めて主演した映画は、この少林寺の入り口で撮影されたという。この登封市で学ぶ約2万人の学生たちは、ただ
少林寺一筋の若者であろうが、彼等の夢はなんだろう。
指導者としてカンフー役者として、道は限られているが、
その長い修練は他の世界でも大きく羽ばたく素地を持っている。

それにしても少林寺は「武道少林寺」というより「観光少林寺」のイメージを強く持った。 

しかし、見ることのできない少林寺武道学校の中では熱く厳しい過酷な修練に励む若者たちの声なき魂の叫びが脳裏に去来してくる。

少林寺の西約300メートルに少林寺歴代管長、僧たちの墓地がある。
「塔林 ターリン」である。
唐代から清代にかけて約220あまりの塔、墓の形も色も各各異なり、中国古代の煉瓦造りが静かな松林の中にたたずんでいる。

さて、例によって「買い物ツアー」にガイドが誘う。
登封市のはずれにある鉄筋コンクリート造のその店は
やたら 店員が多い。翡翠、絵画、アクセサリー、書画、宝石、
どれも価格があってないような品物の陳列である。
ガイドと店長らしき者がやたら話している。
ハックは常識だろう。
宝石、真珠の仕事にたずさわったことのある、あたいには、多少なりとも価値が理解できる。
市価の何倍もとる商品を、私は買うはずはない。笑

バスは一路 登封市の山麓を走り 鄭州市へと向かう。

注 行がずれます。




 

【旅行時期】2007/06/28~2007/07/05
【エリア】河南省
【テーマ】古城・寺院めぐり
【投稿者】浅山 (あさやん)

青蔵鉄道と太陽の都ラサ、ツェタンNo2・・・日月山、青海湖、テント村(by 早島 潮さん)

李世民
平成19年5月20日(日)                                      
 西寧で一泊過ごし高度に対する体の順応も少しずつ出来てきたようだ。ここ西寧の標高は2,275mである。                
        
 朝ホテルで計測器により血中酸素濃度を測定すると酸素96,脈拍75で先ず先ずの体調である。             

                    
 最初西寧市内観光と言うことで青海省博物館を見学した。この日は博物館前の広場で携帯電話会社の販売促進大会が催されていて数々のアトラクションが行われていた。


 博物館内の展示物はどこの博物館にもあるような考古学的な発掘品が展示されており特記する程のものはない。       

                             
 博物館の入り口に小島という日本人実業家の胸像が置かれていた。ガイドの説明によれば第二次世界大戦で戦闘機に搭乗し重慶爆撃に参加した兵暦の持ち主である。終戦後は豊田自動車の下請け会社を経営して成功した。


 軍令によるとは言え、重慶攻撃に参加して無辜の人民を爆撃するに忍びず動物達を狙って爆弾を投下し多数の動物を殺害したことに対する贖罪意識から青海省のこの建物を寄贈したのだと言う。青海省へはたびたび来訪し地元市民達に慕われている存在で未だ健在だと言う。素晴らしい、金の生きた使い方をした人で、いい人生を過ごされていると感動しながら説明を聞いた。リマの天野博物館を建設し経営した天野氏とも一脈合い通じるものがある。                           

                  
 この後、青蔵公路を茶カまでの長距離バスドライブである。


 途中チベットへ唐から政略結婚で嫁いだ文成公主も通ったと言われる日月山の峠(標高3510m)や橡日山峠(3817m)を越えてのドライブは次第に高度があがっていき、心なしか息苦しさを感じるようになってきた。またチベット人のテントを訪問し遊牧民族の生活実態を見学することもできた。テント村を後にして途中青海湖で昼食を摂り塩の産地茶カ湖まで行った。                                     
 文成公主が嫁いだころは日月山の峠を境にがらりと景色が変わった。手前は農耕地域であるが峠を越えると遊牧地帯に変わるのである。そしてこの辺りの川はいずれも東から西へ流れているが一つだけ西から東へ流れる逆流川がある。人々はこの川を文成公主が故郷への想いを残して流した涙川であると伝えている。  

                             
ここで唐の宗室から文成公主を娶ったソンツェンガンボとチベット仏教中興の祖ツォンカパに焦点を絞ってチベットの歴史と仏教の興廃を概観すれば以下の如くである。           

                      
 618年に唐を興した李淵の衣鉢を襲った李世民が太宋として中国を統一した頃(628)唐の西方には吐蕃の33代目の王ソンチェンガンボが勢力を張り一代でチベット諸族を征服して統一王国を完成した。                                 

 634年(貞観8)初めて唐に使者を送ったが、その東方活動が激しかったため641年(貞観15)唐では太宗の養女文成公主をソンチェンガンボに降嫁させた。             


これにより王はすこぶる親華的となり中国文化を熱心に取り入れ647年の王玄策のインド征討には援軍をだした。また王はトンミサムボータをインドに派遣してインド文字にならってチベット文字を作らせた。また最初のチベット文法を著作させた。              

 一方ネパールから妃としてアムシュバルマンの娘チツンを迎えた。チツンは文成公主と並んでおのおの生国の仏教をチベットに導入したと伝えられる。                   

 現在ラサの古刹のうちジョカンはチツンが、ラモチは文成公主が創設したと伝えられる。そしてソンチェンが観世音の化身として、またチツンが白ターラ、文成公主が緑ターラの化身として長くチベット人の間で信仰されてきた。                        

 文成公主が唐から持参したのは釈迦像でありチツンがネパールから持参したのは十一面観音像であると伝えられる。     


 勢いのあった吐蕃国もラン・ダルマ王が即位して廃仏令を下し佛寺を破壊し僧尼を還俗せしめるなどしてモン教に復帰しようとしたためベルギドルジュと言う僧侶に暗殺されて古代チベット統一王朝は846年に滅亡した。それ以後近世まで中央チベットの政権の情勢は明らかでない。                
                        

 西チベットの王イェシェオェは衰退した仏教を復興するためインドの高僧アティーシャを招き、アティーシャはネパールを経て1042年入境した。アティーシャは宣教と訳教に勤め上下の大きな帰依を受けた。その修学不二の態度は後の改革者ツォンカパの教学に大きな影響を及ぼしている。            


 アムドで生まれたツオンカパ(1357~1419)は7才の時出家し16歳ころより中央アジア各地を遊学し36才の頃自らの学派を立てた。その学風は従来の呪術的で淫靡な紅帽派の風を排し厳格な独身禁欲による戒律の護持と顕密の両学の段階的な学習が特徴である。53才の頃ガンデン寺を創設し学風を宣揚した。彼の死後二大弟子からダライ、パンチェンの両ラマが転生し、その法灯が継がれていった。黄帽派、改革派と呼ばれている。                      


 17世紀に青海省を中心に勢力を伸ばしていたモンゴルのグルシンの援護を受けたダライ・ラマ5世がチベットを統一した。1637年には清の太宗のもとへ使者を送り存在をアピールした。また順治帝のときにダライ・ラマの称号を贈られ、第一世から第四世までのダライ・ラマの称号の使用を追認させている。


 ダライラマはチベットの宗教・政治の両権を握る法王的最高主権者のことである。


 ダライラマの初代は黄帽派のラマ教開祖ツォンカパの晩年の弟子ゲドン・ドゥパである。黄帽派は戒律厳しく妻帯が禁じられているため後継者がないわけであるが、高僧は俗人の腹を借りて代々転生すると言う思想によりその系統は維持されることになった。                                                                                                                                                          

【旅行時期】2007/05/20~2007/05/20
【エリア】中国
【テーマ】
【投稿者】早島 潮